その為には、技術云々の前に、まず心身ともに健康でなければならないと思う。私はソフトウエアエンジニアを長く続けているが、この業界では不健康な生活を送っている人たちが多い。自分もかつてはそうだったが、子供が生まれてから上記の様な事を考えるようになって、生活スタイルを大分と変化させた。
そこでこのブログでは、そんな自分の生活を垣間見せる事によって、健康的な生活を送るためのヒントにして貰えれば良いなと考えている。
ところで健康と言えば、健康食品・健康器具・薬・サプリメント等、現在多種多様な物が販売されている。では、毎日こういうものを摂ったり使ったりして、自分の体に異常が無ければ健康だと言えるだろうか? そこで今日は、「健康的な生活」とはどんなものなのかを考えて見たい...
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■健康の定義は...
健康の定義として一般的なのは、WHO (World Health Organization) の定義で、
「Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.」
「健康とは、肉体的、精神的及び社会的に完全に良好な状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」
と言う事になっている。おそらく多くの人はこれに同意するだろうが、非常にあいまいな定義である。しかもおそらく望んでも誰一人として手に入れる事のできない状態だと思える。誰もが到達できないが、目標として目指す状態を示しているのかも知れないが、世の中に健康な人が誰もいないと言うのはやはり違和感がある。
そこで私としては、これらを次の様に解釈することにしてみた。
■肉体的に完全に良好な状態
多くの人はこれを満たせば健康な状態であると勘違いして、「過剰に良好な状態」を求めようと浪費をしている様に思える。
髪の毛や爪が長い状態が well-being であるか、短い状態が well-being であるかは人による。体の一部が欠損していても、不自由なく人生を過ごす人もいればそうでない人もいる。江戸時代の日本人の平均寿命は現在より20歳以上低いが、彼らが皆肉体的に不良な状態にあった訳では無い。つまり「肉体的に完全に良好な状態」は各人で異なると考えられるだろう。かといって全く指標が無いのも困る。そこで私はこう解釈している。
「生活に支障無く、孫の顔を見届けられる程度まで生き延びられる肉体的状態」
これまた曖昧かもしれないが、現代の日本人で義歯や眼鏡を使用していない人は稀だ。そういう物を使えば生活に支障が無いなら健康と呼んで良いのでは無いだろうか?
もう一つの寿命に関する内容だが、古くから「不老長寿」を求める人が後を立たない。しかし「不老長寿」が実現したとしたらそれは健康な状態であると言えるだろうか?もしかすると個人として見れば健康な状態なのかも知れない。しかし人間全体の遺伝子プールを眺めて見ると、それは多様性を失わせるだけの害悪でしかない。個体の寿命が長くなればなるほど環境変化への対応が遅れるので、いたずらな長寿命化は良い事では無いと思える。従って適当な時期に天に召されれば良いので、それを「孫の顔を見届けられる程度」と表現して見た。
こう書くと「年寄りは不用品ですか?」と受け取られてしまうかも知れないが、そういう事では無い。最低限このくらいは生き延びて欲しい、そこから先は生活に支障が無ければ全て健康だと考えて良いと言う事だ。
こういう考えに至ると、命を延ばすだけの医療行為は止めて貰いたいし、人間の個体の長寿命化の研究なんかに資源を使うのは無駄だから、人類の生存環境を永らえる研究に資源を使って欲しいなと思う様になる。
■精神的に完全に良好な状態
肉体的な健康は物理的に測定しやすいが、心の方はそういう訳にいかないのでより定義が難しい。昨今の裁判では、同一人物が精神異常であるのか無いのかを専門家でも的確に判断することができず、異常と正常の区分けすら曖昧だ。ましてや正常と見なされる人の中でも、精神的に良好な人と不良な人の区別はなおさら難しい。そもそも保険や心理の研究分野でも、精神的な健康を定義する事自身がテーマとなるくらいなので、今のところ一般的な定義は存在しないようだ。
しかしだからと言って、これを考えない訳には行かない。コンピュータと人間の大きな違いは、答えの無い問題でも適宜答えを出すと言う点にあるので、人間である私は答えを用意しておいた。
「欲望に支配されず、楽しいと感じる状態」
とりあえず、これを健康的な精神状態としておきたい。色々異論はあるかと思うが、心理的に良好でない場合と言うのは、大方の場合
「あれが欲しい」
↓
「手に入らない」
↓
「不満、楽しくない」
と言うプロセスを辿っている様な気がする(「あれ」と言うのは、人、物、金、地位、名誉、等など人間の欲するもの全て)。我々が生物である以上、生命維持に必要なこれらのメカニズムが自分達の中に存在することは認めなければならないが、それに振り回される必要までは無い。
「足るを知ること」
これさえ覚えられれば、精神的に良好な状態にはなりやすいのではないだろうか。
しかし人類は、その過剰な欲望を満たすために技術を色々と進歩させたと考えられる。全ての人が「足るを知」って幸せになってしまえば、その進歩の原動力が失われてしまう。と考える人達もいる。この人達は暗黙のうちに「進歩=善」「進歩が無い=悪」と言う価値観が絶対的なものであると考えているらしい。だが良く考えて見て欲しい。1万年前の人類には現代の様な技術は一切無かったが、精神的に良好で幸せな人生を送ることはできなかったのだろうか? この先1万年間技術進歩が何も無かったとしたら、我々(とその子孫達は)幸せに生活することができないのだろうか?
そんな事は無いだろう。
過剰な欲望を制御し、持続可能な社会を作り上げる事が、精神的な健康に必要な事だと思う。
■社会的に完全に良好な状態
今まで条件は、どちらかと言うと個人の健康的な属性だった。しかし社会的な生物である人間は、一人では生きていく事ができない。そこで良好な対人関係を築ける事が、社会的な健康と呼ばれているようだ。そうすると「良好な対人関係って何?」となる訳だが、簡単言えば、
「一人以上の信頼できる他人がいる状態」
くらいで良いのではないかと思う。
■その他
さて以上 WHO の定義にそって健康な状態と言うものを考えて見たが、まだ足りないものがある様に思えてならない。
冒頭でちょっと触れたが、上記の3っの健康状態を維持するために「健康商品を沢山消費する」と言う状態は、健康と言えるのだろうか? また、それらの健康商品の製品サイクルにおいておこる環境汚染(石油化学製品の消費、生物資源の搾取、廃棄物の処理)はどうなのだろう。
この様な状態を続けると言うことは、要するに自分達の子孫の未来を奪って自分の健康を維持していると言う事になるのでは無いだろうか? 自分が健康的な生活をしようと思ったのは、我々の子孫の為なのに、それがかえってその未来を奪うことになると言うのは本末転倒である。
そこで、もう少し健康の条件を加えて見ることにした。
「持続的な出費が必要とされない状態」
つまりお金が無ければ維持できないなら、それは健康な状態では無いと言う事だ。
「環境的に持続可能でほぼ永続的である」
石油はいずれ枯渇する限りある資源なので、消費して捨ててしまえばいずれ使えなくなる(持続可能で無い)。二酸化炭素の過剰な放出は全ての生物の生育環境を変えてしまう(永続的でない)。廃棄物の捨て場所は有限(永続的でない)。等等...。
我々はもっと環境に配慮する必要がある。これは「自分一人がやっても大勢に影響が無いからやっても無駄」なのでは無い。各人が少しずつ配慮するだけで大きく変わるものなのだ。そもそも環境が悪くなれば、どんなに努力をしても我々が健康を維持する事はできなくなる。吸う空気、飲む水、食べる生物。これらの生きる上で必要な資源を、自分達の為にも、遠い未来の子孫達にも、安全に手に入れる事ができるように努力する必要があるだろう。
■まとめ
以下、私の考える健康の5っの条件をまとめて見た。
身体的健康 | 「生活に支障無く、孫の顔を見届けられる程度まで生き延びられる肉体的状態」 |
精神的健康 | 「欲望に支配されず、楽しいと感じる状態」 |
社会的健康 | 「一人以上の信頼できる他人がいる状態」 |
経済的健康 | 「持続的な出費が必要とされない状態」 |
環境的健康 | 「環境的に持続可能でほぼ永続的である」 |
私はこれらを全て満たす生活が「健康的な生活」であると考えている。現在まだまだ到達できていないが、これを目標に現在進行中である。このブログでもそういう生活の一部を、書いていきたいと思っている。
こういう事は漠然とイメージしているより、こうやって明示しておくとそれに向かって進みやすいものだ。皆さんもこの機会に、「あなたにとっての健康とはどんなのものか?」と言う事を考えて見ると良いと思う。この定義とはぜんぜん違うかも知れないが、最初に見たとおり健康の定義は曖昧なので、各人毎にそれぞれの健康観があって良いだろう。
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